【追悼文】

横関健三さんを偲んで

園元謙二

酵素工学研究会名誉会員

 

本研究会元副会長、名誉会員の横関健三氏は、2023年12月28日に急逝されました (享年75)。ここに謹んで哀悼の意を表します。

横関さん (敬愛の意を込めて)、早すぎるよ!それも代名詞の「秒で動く」のような急逝とは!訃報を受けて茫然となった。もっと生きていてほしかった。もっと教えてほしかった。もっと遊んでほしかった。そしていろいろな思い出がふつふつと湧き上がってきた。本稿では、私にとって唯一無二の愛すべき5歳上の「兄」を偲び、若い頃の横関さんについて、特に本研究会との関わりについて、いくつかのエピソードを交えながら追悼したいと思います。なお、横関さんの企業や大学 (寄付講座) におけるすばらしい研究業績その他は他の執筆者に譲ります。

最初の出会いは本研究会が設立された翌年の1980年秋、私は京都大学博士課程2年生であった。その頃の私は本研究会初代会長の福井三郎教授の研究室助手の田中渥夫先生 (本研究会元会長、京都大学名誉教授) のグループ (通称、ゴキブリグループ) の最高学年として固定化生体触媒の研究に取り組んでいた。教授室に呼ばれると、A社の強面の幹部数名と30代前半の「シャキッとした」横関さんがいた。福井教授から「3か月くらい固定化について教えてあげて」とだけ言われたことを覚えている。企業からの持ち込みの2つの研究テーマについて、固定化技術を導入し、有機溶媒存在下で酵素反応を行うことになった。

第一次バイオブームの只中で、研究室は“バイオ”に期待を寄せる企業から派遣された優秀な若手研究者が増えていた。私はこれらの方々の対応に追われていたが、その中でも横関さんはとにかく「秒」単位で動いていた印象が強い。当時、学生の多くが研究室に入り浸っており、研究に没頭する半面、時間にルーズな生活を送っていた。それ故、学生にとって社会人の研究への取り組みは大変参考になったが、横関さんの集中力は際立っていた。一方、夜は麻雀、酒などで学生たちと交流し (単身赴任だった)、週末は東京から持ちこんだ愛車で我々学生を誘い小旅行に出かけることが多かった。仕事も遊びもとことん楽しみ、かつその切り替えの早さはすばらしかった。そして、私はなぜか横関さんとは妙に馬が合った。横関さんの“意気に感じる”性格にも共感もした。この出会いが私のその後の研究スタイルに大きな影響を与えたと言っても過言ではない。横関さんの短期間の研修が終わった後、『嵐のような期間だったね』というのが研究室一同の思いであった。なお、横関さんはこの時得られたデータで英文論文2報を出した。研究シーズが決まっていたとしても速い!!のちに本研究会の副会長となる横関さんの前日譚を目の当たりにしていた (写真1)。

これ以来、横関さんとは公私ともにお付き合いしていただくと共に、設立されたばかりの本研究会の様々な活動を通して交流が続いた。当時、本研究会は第6回国際酵素工学会議 (Enzyme Engineering VI) を日本へ招へいすることに努力を重ねていた。従来は米国で4回、西ドイツで1回、隔年で開催されていた。1981年9月、三重県賢島志摩観光ホテルでの開催はアジアで初めてのものとなり、本研究会の皆が成功を望んで邁進していた (実行委員長、福井三郎会長;プログラム委員長、田辺製薬の千畑一郎副会長)。この会議は合宿形式なので、夕食後、ソーシャルアワーが設定されており、夜遅くまで参加者の交流が続いた。ドリンクサービスは主催者側が行い、横関さんも協力してソーシャルアワーを盛り上げていたのを覚えている (因みに筆者は当時、博士課程3年生でスライド係などを担当していたが、夜はバーテンダー) (写真2)。

これ以降、国際酵素工学会議は米国 (1983、1987年) を中心として隔年で欧州 (1985年)、アジア (1989年) で開催されることとなった。1985年、デンマークで行われた第8回国際酵素工学会議には日本から本研究会の会長、副会長、重鎮の先生はじめ筆者など16名が参加した。筆者にとって海外での初めての酵素工学会議であったが、横関さんの何気ない気遣いに大いに助けられた。会議後、田中先生、横関さんと3人で北欧研究機関巡りをし、30代の二人は助さん・格さん役で珍道中であったことが懐かしく思い出される (15年後、2度目の欧州3人旅は寄る年波に勝てず疲労困憊であった)。なお、この会議が海外で開催される時、横関さんは たびたび“ジャパニーズアワー”を支えてくれた。“ジャパニーズアワー”とは、著名な海外参加者を会議の期間中に招待するもので、日本の“おもてなし”を通して密接な交流を図るために行っていた。横関さんは招待状の作製・配布、飲食のための買い出し、当夜の台所係などなど色々な雑務をもくもくとこなしていた。

1989年の第10回国際酵素工学会議も日本 (賢島) での開催となった (実行委員長、岡田弘輔会長;プログラム委員長、田中渥夫京大教授)。当時、アジアでは我が国以外に欧米の酵素工学研究レベルに匹敵する国はなかったからである。このころ、横関さんは産の中堅として、かつ事務局のスタッフとして運営に携わり、率先してこの時も“秒”単位で動いていた。また、産からの大会支援にも大いに動いてくれた。もちろんソーシャルアワーではバーテンダーで大活躍だった。横関さんの面目躍如たる働きに皆、感心していた (写真3、4)。

このころ、2国間の会議も本研究会のメンバーが中心となって数多く行われていた。例えば、日独 (1978年~)、日スイス (1988年~) の2国間の会議 (現在は日独スイス) では、横関さんの気取らないもてなしが各国の研究者に好評であった。また、日中酵素工学会議 (1990年~、現在は日中韓) でも横関さんの存在は特筆すべきで、宴会の際の歌合戦では中国語での歌唱はすばらしく、中国側との交流に大いに貢献していた。

1980年代、日本は酵素工学分野の基礎研究及び工業的利用でフロントランナーであり、世界をリードしていた。それは本研究会の第一世代、第二世代の研究者によるところが大である。しかし、1990年代から研究テーマの多様化とも相まって徐々に活力が低下してきた。特に、企業からの研究発表が以前より少なくなってきた。このような時、横関さんは本研究会を産の立場から陰で支え、「実学研究の強み」を押し出して本研究会の発展に尽くしてくれた。

横関さんは本研究会以外でも大変な活躍でしたが、さりげない心配りができる人として皆の意見は一致するだろう。いろいろな点でその人柄が表れていると思う。横関さんのカラオケの十八番は「ヘッドライト・テールライト」。18年ぶりにNHKで「新プロジェクトX 挑戦者たち」が復活したが、この歌はエンディングテーマ曲。先日、ご自宅に伺い、遺影を拝見した時、横関さんがこの曲の最後の歌詞、「♪旅はまだ終わらない♬」を自身の数々のプロジェクトを思い出すように歌っていた姿が浮かんできた。今、つくづく再会したいと思う。そして、私にとって“地上の星”である横関さん、あなたにこの追悼文をささげたい。

最後になりましたが、横関さんよりこれまで頂きました数々のご恩に感謝申し上げ、ここに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。