【巻頭言】
酵素の熱安定性について
宮脇長人
石川県立大学生物資源環境学部
量子力学者シュレージンガーは「生命は負のエントロピーを食べる」としている。化学反応において平衡状態はエントロピー極大状態であり、生命にとって平衡状態は‘死’を意味している。従って、生命は外部から食物を取り込み、エネルギーを補給し続けることによって‘死’から免れている。
一方、生命にとって水の存在は必要不可欠である。どこか別の天体で水以外の溶媒環境における生命の存在の可能性も論じられてはいるが、その可能性は極めて低いようである。地球上にたまたま水が存在していたことが、生命の存在の大前提となっている。ところが、その水環境において、生命は本質的には不安定である。生命体を構成する全ての生体高分子は水環境においては加水分解される運命にあり、酵素タンパク質も例外ではない。
生命はタンパク質をアミノ酸から合成して一次構造を形成するためにATPのエネルギーを必要とし、さらにタンパク質が機能を発揮するためには正しい高次構造が必要である。タンパク質が正しい高次構造を形成してfolding状態にある場合と、これが壊れてunfolding状態になった場合との間のタンパク質の自由エネルギーの差がタンパク質の構造安定化エネルギーである。しかしながら、この構造安定化エネルギーは一次構造形成に要するエネルギーに比較して極めて小さい。タンパク質の構造安定性においては、基本的には安定化要因としてのエンタルピー項と不安定化要因としてのエントロピー項があり、後者の寄与が大きいために、これらを合計するとタンパク質の構造安定化エネルギーは極めて小さくなってしまう。このようなことを考え合わせて、タンパク質の構造は‘marginal stability’といわれ、極めて不安定な状態にある。
しかしながら、この‘marginal stability’は生命にとっては必要なことでもある。代謝は生命の本質であるが、安定化エネルギーが低いことはタンパク質代謝においては有利となる。生命はタンパク質を使い捨てにしているように思われる。実際、タンパク質の寿命は意外なほど短く、構成酵素であるTCAサイクルの酵素や電子伝達系のシトクロムcでさえ数日で分解されてしまう。生命は、さらに、ユビキチン/プロテアソーム系のようなエネルギーを使ったタンパク質分解系さえ用意している。タンパク質の安定性は生命にとっては必ずしも必要ではないように見える。
このことは、生体触媒としての酵素を有効利用しようとする酵素工学の立場からすれば大変困ったことである。酵素を工業利用する場合、熱安定性の指標として至適温度が重要である。しかしながら、至適温度とは、温度上昇による酵素反応の活性化と酵素失活速度の増大とのせめぎあいの温度領域であり、酵素タンパク質が壊れつつある温度でもある。このことは好熱菌酵素や遺伝子工学的に熱安定性を改変した耐熱性酵素でも全く同様である。耐熱性酵素では至適温度は変化しても、至適温度付近の熱力学的安定性のメカニズムは基本的には変化しないと考えられる。従って、至適温度は酵素反応の測定時間に強く依存して変化し、また、バイオリアクターなどにおいて至適温度付近で長時間の酵素反応を行う場合には、酵素失活も同時に進行する。これまでの教科書の酵素反応速度論においては、酵素タンパク質は安定であることを前提としており、タンパク質構造の不安定性と酵素反応との関係は殆ど論じられていないように思われる。実用的な酵素反応速度論として、至適温度付近の酵素の動力学的挙動を記述することのできる‘壊れかけ酵素のエンザイモロジー’が必要ではないだろうか?