【巻頭言】
物指し
安達修二
京大院・農
国立大学が法人化されて2年半が経過した。この間に、組織や運営だけでなく、教育・研究のあり方も大きく変わり、少なからず違和感を覚える。これは年齢からくる適応力の低下が一因かも知れないが、それだけではなさそうに思う。法人化前後から外部資金の獲得や業績評価などの競争原理が強く言われだした。しかし、競争のない社会などはなく、改めて言うこととも思えない。筆者の違和感は、その進め方に起因するのであろう。いわゆる校費が減少し、競争的資金の割合が多くなった。校費(運営費)は学生のセミナー用資料のコピー代程度というところもあると聞く。これでは入口の段階から競争にならない。実験系では卒業研究は教育と研究の両面で大切であり、それを保証する最低限の研究費を手配したうえで、成果を競い、優れたところが厚遇されるのが筋であろう。いまは、過去の実績があるか、または若さがなければ土俵にすらあがれない(若手に限定した競争的資金が多い)。最近、データの捏造などが紙面を賑わしている。門外漢には真偽は分らないが、事実とすれば、研究費の入口での過度な競争による焦りが遠因かと邪推する。
また、大学等の教員の公募制が一般化した。助手の採用でも、以前のように将来を期待してとはいかなくなり、実績が求められる。助教授や教授の採用でも同様であり、実績とは多くの場合、論文の数とインパクトである。質と数は必ずしも独立ではない。古い論文を読むと、いまなら3報分だなと感じることがある。また、数だけでみると、環境によって有利と不利がある。経験からの直感的な数字で恐縮だが、教員一人当たりの校費が60 万円と120 万円を境として、研究と教育の環境が大きく異なるように思う。60 万円以下のところでは講義や学生指導の負担が多く、研究や論文執筆の時間の確保が難しい。一方、120万円以上のところでは、教育に対する負担が比較的少なく、自らが考えて実験する学生の割合が多い。また、研究室の運営形態から、自身が執筆しなくても連名の論文がでることも少なくなかろう。したがって、公募採用などでは、論文の数については応募者の環境を考慮した加重があってもよいと思われるが、そのようなことはなさそうである。
高等専門学校、公立大学および国立大学の3系列の学部に在籍した。各機関は異なる趣旨とミッションのもとに設立され、当然、使命や教員としての業務も異なるはずである。ことに、高専は文部省内での所管部署が大学とは異なり(当時)、必然的に大学とは教育における役割が違うはずである。したがって、機関によって教育と研究の比率と内容が異なるべきであろうが、どこでも求められるものに大差がなく、研究とその成果であった。
大学は研究機関である同時に教育機関でもある。全入時代が間近となり、教育機関としての競争も激化する。最近あるホームページで、「大学は学校に、学生は生徒に、講義は授業に変わった」ことを認識する必要がある旨の記載をみた。言い得て妙である。また、筆者が学生の頃にはなかった、学生による授業評価も一般化した。授業評価というが、教員評価の面もなくはない。教員は、以前は一方的に学生を評価する立場であったが、いまは評価される立場でもある。悪いことではないとは思うが、学生は何を基準に評価しているのかと疑問に感じることもある。
上述した違和感や疑問はどこからきているのであろうか。大綱化により教育の多様化が図られ、新奇な学部が比較的容易に設立できるが、ある機構の評価を受けることになった。一方、この数年で競争原理と競争的資金の流れが加速した。これらの制度の趣旨はいずれも多様化と自由な発想であり、正しい評価が前提となっている。しかし、評価の物指しは多様化に必ずしも適応しておらず、むしろ逆に単一化しているように思われる。ときには、長さを天秤で測るような齟齬を感じることもある。また、各種計測具にはそれぞれの標準があるが、上述した評価の基準には原器が存在するのであろうか。
愚痴と甘えを書かせていただいた。学生の評価などに対する筆者自身の自戒も込めて。
本研究会は設立以来25 年以上が経過した。この間に酵素工学に関連する科学と技術は大いに進展した。裾野の広がりは研究会に集う人々の多様化を意味し、必然的に会員が研究会の活動を評価する物指しの単位も目盛も多様であろう。